箱根ジオパーク

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福浦カツラゴ海岸の言葉の由来の仮説

“福浦カツラゴ海岸”言葉の由来の一仮説

 

 湯河原まちづくりボランティア協会    木幡 啓志  林 明徳

 

 箱根ジオパークの41番目のジオサイトに福浦カツラゴ海岸があります。ここは湯河原町の福浦漁港の隣で真鶴半島の根元に位置し、15万年程前に噴出して真鶴半島を作った溶岩と、その下の関東ローム層の下部の多摩ローム層の接触部分が見える場所としてジオサイトになっています。

 しかしこの名前の由来が誰に聞いてもわからず、お客さんからの質問にも答えられずにいました。最近になり、湯河原町史第三巻通史編で「北条氏規印判状」にかつら網御用の記載を見つけたのがきっかけで、湯河原のジオガイド2人で調査し次の仮説をたててみました。

 皆様のご批判、ご助言をいただければと思い発表させていただきます。

 

 

 かつら(()桂(かずら・かつら)())網漁(振縄漁とも)は()を主とする追込漁の1種である。 

かつらは昔繊維が普及していない頃、漁網の材料としてつる性植物のかずら(葛・蔓)が使われていた所から名付けられたと思われ、()は古くは「かつら」とも読み、かつら漁の“漁”は呉音読みでは“ご”で、かつらごと読める。海岸の名はここから来たのではないかと推測する。

 

 

 真鯛()(鯛の代表種)の成魚は水深30~200mの岩礁や砂礫底の底付近に生息し、産卵期の2~8月に沖合の深みから浅い沿岸域に移動する。

 鯛の漁獲法は釣り針によるものと網によるものに大別できるが、かつら網漁は網による方法の追込漁の一つである。カツラと呼ばれる綱で鯛を網に追い込む点に特徴があり、岩礁性の海域で行われる。

 カツラは長さ100~200m前後の木綿の綱で、40~70cm間隔に「ブリキ(振り木)」と呼ばれるエゾ松の木片が結び付けられている。このカツラを2艘の船で海中を引き、海中で揺れるブリキの音に驚いた鯛を、マチ船とアミ船が張る敷き網に追い込み網を引き揚げ捕獲する。

 

 この網による捕獲漁法は、室町時代末期から瀬戸内海を中心に発達し、相模の国では永禄10年(1567)小田原北条の時代、三崎城主(兼韮山城主)・北条氏規(小田原北条3代氏康の4男)が、横須賀市安浦の漁師に「かつら網」*による漁を行うことを認めている。

   *瀬戸内海で発達した同じ捕獲漁法であるかどうかは年代的に疑問がある。

 

 このかつら網は江戸時代に大消費地となった江戸へ鮮魚を供給する内房漁業を象徴する漁法で、鯛を効率的に多数捕獲することができた。

 相模湾、伊豆七島、駿河湾では、このかつら網は鯛よりはむしろイサキ(岩礁帯を好む)が主な魚種であったようであるが、岩礁海岸のこの場所は地形的な条件からもその名は「かつら網」に由来するのではと考えた。

 
 
 
 補足 1.古老の話によれば、昔この海岸付近の山中には葛・蔓などつる性の植物が繁茂していた。 
      2.付近に「かつら根」という岩礁がある。
 

 

 参考文献 1.新編相模風土記稿第二巻(大日本地誌体系20)雄山閣版全集 
        2.日本の歴史第八巻(戦国の活力)小学館 
             3.盛本昌弘「後北条氏の水産物上納性の展開」(日本史研究359) 
      4.野村正恒「最新漁業技術一般」成山堂書店 
      5.鈴木克美「鯛」(ものと人間の文化史69)法制大学出版局
      6.川島秀一「追込漁」(ものと人間の文化史142)法政大学出版局 
      7.杉浦敬次「東国漁業の夜明けと紀州漁民の活躍」セイコー社 
      8.岩崎宗純・内田清・内田哲夫「江戸時代の小田原」小田原市立図書館 
      9.東京大学史料編纂所「所蔵資料目録データベース)(後北条朱印状) 
      10.湯河原町企画課町史編纂室「湯河原町史」(通史)
      11.神奈川県史編集室編「神奈川県史」(資料編)
 

(情報提供:湯河原まちづくりボランティア協会)

 
 

 
 
 


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